ゆたりのTY日記

いつも心温かく生きていいって。

自尊心と繰り返すパターン

 

ひと段落ついてから、自分の人生に専念することに意識を向けている。

 

これまで私は、自分の人生を生きることにエネルギーを注がないで、人の世話をして人から感謝されようとしたり、何かをするのも人から誉められたり認められたり、愛されようという動機からやっていることが多かった。

 

そして、そうやって人を巻き込んだり巻き込もうとして、結局不満を得るということを繰り返していた。

 

散々欲しいものが得られなくて苦しい気持ちになっているのに、またそれを忘れて人を巻き込む(甘える)ことを繰り返していた。

 

どうして人を巻き込まずにいられないのか。

 

それは、自尊心が低く、自分の存在の価値を人の価値よりも低く感じていたからだ。

 

だから、人に喜ばれることが、自分の価値を上げてくれると無意識で思ってやっていたんだろう。

 

(本当は、そんなことで人の価値は決まらないと思うんだけど、幼少期の生きる戦略の名残だと思っている。)

 

それが、自分が生まれるときのイメージを書き換えて、「私はこの世に生まれてきたくて生まれることを選択したんだ」という気持ちになってから、状態が変化した。

 

変化にハッキリ気づいたのは、以前の繰り返しのパターンをやろうとして、「あ、私はまだ人に幸せにしてもらおうと、依存しようとしてるんだな。」と気づき、その瞬間で人から何かをもらうことへの執着を手放せたときだ。

 

私がこの年齢まで苦しみながら手放そうにも手放せなかったパターンだったので、終わるときのあっけなさには少し驚いたが、一気にさわやかな気持ちになった。

 

それからは、「人にどう思われてもいい、自分の人生を生きよう」という思いが強くなっている。

 

私が、疎外感や人に置いて行かれるような寂しさ、嫉妬に近いものを感じていたのは、ただ自分以外の人にばかりエネルギーを注いだり、注目したりして、自分のためにエネルギーを注ぐことをやっていなかった、自分を生きてこなかったからだと思った。

 

人を巻き込まず、自分のやりたいことを一人でやっていくと決めると、物事はスムーズに動く。

 

私は病気になって、多数の人が表面上は良しとする生き方とはだいぶ違っているけれど、私は私でいいし、私でしか生きることのできない人生で、私がしたいことをする。

 

それでいい。

 

人が思う成功じゃなくてもいい。

 

思いっきり自由を満喫し、自分がいいと思う生き方をずっと生きていく。

 

誰にも遠慮することはない。

 

憧れるだけだったことも形にしていく。

 

すでに、SLEになってから、だいぶ自分の思う生活スタイルになっている部分もあり、そんなに難しいことではないと感じる。

 

誰かに「お前には生きている価値がない」と思われようが(自分の中の「世間の声」かな)、例え少しでも自分が生きていて楽しいとじんわり感じられるなら、生きてる価値があるってもんだ。

 

人に認められることや、「人より自分は価値がある」という優越感に安心を得るのではなく、自分が自分であることが安心な状態になれば、何も持っていなくても、平和な自分でいられる。

 

私はこの件で、自分や周りでくり返されている良くない行動パターンは、恐れ絶望する対象ではないし、「変えられるものではない、しかたない」と運命論的にあきらめるものでもないと思った。

 

「変えられない」と嘆くのは、嘆くことで別の目的を達成しているからだろう。

 

だけど、成長したいなら、必ず変えられると、私は信じている。

ひと段落

 

2017年、梅雨明けを過ぎ、暑くなってくると、官足法はだんだんサボり気味になった。

 

なんとなく体調が下降気味になっている感じがしたので、クーラーも我慢しすぎないで使うようにした。

 

クーラーで夜眠れるようになると、体調が少しづつ持ち直してきた。

 

「クーラーなしにして汗をかくこと」にちょっとこだわり過ぎていたかもと思った。

 

食欲が落ちてきていたので、朝はおかゆにしたら、さらに楽になった。

 


この夏は色々あって、自分の中を整理したり(実際に服飾品を整理し大半を処分した)、自分の中のものをさらけ出した夏だった。

 

自分の未熟な部分や、闇の部分も見ることになったが、抑えていた感情を解放できて、結果スッキリした。

 

(色々気付きを求めて自分に向き合う作業に集中すると、就寝時間がどんどん遅くなり遅寝遅起きに戻ってしまったが、1人静かに向き合えたのでそれでいい。)

 

両親とも相当ぶつかって、本音で話した。

 

親を愛していることもちゃんと伝えた。

 

自分で言うのもおこがましいが、自分を不幸にする価値観を頑なに握りしめているように見えた両親にも、前向きになるような一石を投じることができたと思っている。

 

これまで以上に本音を出してぶつかって、1人の時も自分の子供の頃のことを思って泣くだけ泣いた。

 

存分にそれをやったらスッキリし、「親のせいにしてるだけじゃなく、他に前に進む方法があるのでは?」という方向に考えられるようになった。

 

そこで、またその方向に集中すると、ふと読みかえしたくなった本の中に、「胎児期や産まれてくるときの記憶を変えることで、その後自分や親へのイメージが変わり、生きやすくなる」という内容のことを発見した。

 

その著者がそんなことを書いていたなんて、覚えていなかったが、その時期読んでいた別の著者も同じようなことを書いていた。

 

そして、もっともっと前にも、また別の人が似たような体験をしていたのも思い出した。

 

これは大事な鍵なのかもしれないと思った。

 

なので、早速胎児のときや産まれてくるときのイメージを変えてみた。

 

ちゃんと両親に愛され、愛のある言葉をかけられ、自分も頑張って外に出ようと決意し、産まれるイメージ。

 

その時に、なんとなく思ったというか、思い出したというか。

 

「私はこの世に生まれてきたくて、自分で生まれてくることを選択した」ということ。

 

それを感じて、「きっとどんな状況でも、そんなことすら乗り越えて生きていこうと思っていただろうな」とも思った。

 

母のお腹に宿る前の世界があるのかどうかもわからないし、そんな前向きな意志を抱いてきたかどうかもわからない。

 

だけど数年前に、私が病気で死にかけたとき、私に流れ込んできた「私を支えるような前向きな意志」と、似たものを感じた。

 

これが本来の私の意志なのかもしれないと思った。

 

自分の人生を自分で幸せにしていこうという前向きさと自発性。

 

昔の私はもっともっと受け身だった。

 


それから劇的な変化があったわけではないが、大きくひと段落ついた感じがしている。

 

それまで生きづらさを解決するために使っていた労力や時間を、別のことに使えることがとても久しぶりに感じた。

 

自分にフィットするものを探してテレビをつけてみるが、いいものがなく、テレビを消して、しばらく自分自身に意識を向け続けた。

 

「自分を満たすものは、外にはなく、自分の内にある」という感覚が分かったような気がした。

 

そして、外からの騒音も、ただ自分を嫌な気分にさせるものではなく、「ただそこにあるもの」として観察し、流れてゆく。

 

よく瞑想や精神世界の本に書いてあるけど、ただ在ることの中にいて、それで良かった。

 

それからは、海外ドラマをまとめて鑑賞したり、ご無沙汰になっていた音楽鑑賞に興味が出てきたりして、懐かしい気持ちになっている。

 

それと、自分の人生を前に進めるためのことを、ひとつひとつやっていっている。

 

今、楽しい。

 

この数年の旅はとても面白かったし、やっとわかった。

 

誰しもが、自分を苦しめる価値観、記憶を変えて、いつも心温かく生きていいって。